クリスチャン・ボルタンスキー Lifetime 国立新美術館
嫌な予感してたが、やっぱりダメだった。
インスタにやたら流れてきた広告がひどい。「ぼた山」の設営過程を勝手に動画で流してくる。骨組みを組んで板をかけ、その上に黒い服を重ねる工程。作品の意味わかってるんですかね。無数に積み上げられた黒い服。服の数は人の数で、その重みを感じる作品。実際上げ底であってもいい。でも鑑賞者がその数と重みを感じなければ意味がない。せめて学芸員の方は、この広告が絶対NGだと判断したと信じたい。その場合でも、作ってしまった広告を止めなかった国立新美術館もヤバいなと思った。国立新美術館の企画展としての広告であり、美術館は場所貸しの箱ではないはずだから。
この広告が流れてしまうということは、そういう感じなのかと思って行く気を無くしていたが、展示はしっかりしてるかもしれないし、せっかく予習もしたのでとりあえず行ってみることにした。
「咳をする男」「なめる男」
いきなりエログロ。「咳をする男」は胃液と血液の混じったようなのをドバドバ吐いていて、予想よりグロかった。「なめる男」は仮面をつけた男性が女性の人形を女性を悦ばせるように足から徐々に上に舐めていく完全にエロ映像、小学生が見て大丈夫なのか心配だった。人形が恍惚とした表情に見えたのが不思議だった。確か、ボルタンスキーのお兄様が演じておられたはず。案外楽しんでおられた可能性もあるが、ここまで協力してくれるのは、ええお兄ちゃん。
「D家のアルバム1939年から1964年まで」
ボルタンスキーの友人の家族写真。模範的な家族像と言われれば確かに、そういうバイアスをかけて見てしまう。予習しなければただの古い家族写真としか受け取れなかっただろうし、予習も良し悪し。壁の高い位置まで展示されていて、真ん中から上の写真は遠くて見えなかった。
「自画像」
ボルタンスキー氏の自身の年齢の異なる写真を目・鼻・口に分かれるように3分割し、バラバラに組み合わせたモンタージュのような作品。遠目にも全部ご本人の写真と認識でき、近付くと組み合わせたものだとわかる。全部本人で年齢違いという発想が面白い。
「影」
鑑賞者は入れない部屋にモビールのようなものが吊るされていて、異なる3方向から光を当て、その影が壁に映る。扇風機でモビールを揺らしている。同じモビールでも光を当てる方向で影の表情が変わるのがよくわかる。
「聖遺物箱(プーリム祭)」
小さな写真を無理やり大きく引き伸ばしたような、とても低い解像度の写真が箱の中に入っている。解像度が低い写真なのに、顔が浮き出るように立体的に見えて興味深かった。箱に目の細かい網が張ってあって、網にぴったりくっつけるようにライトが当ててあった。
「保存室(プーリム祭)」
大きく引き伸ばされた顔写真は解像度が低く、彫りが深い目元は真っ黒に塗りつぶれている。笑顔の写真なのに怖い。ボルタンスキーは写真現像やプリントをわざと安価なところに依頼すると言っていたが、納得した作品。
「モニュメント」と「プーリム祭」の作品が展示されている部屋で、やはりこれは美術館のホワイトキューブでやるべきではなかったと確信した。ボルタンスキー氏もよくわかっていたはずなのに。じめっとした重々しい空気とカビとお香が混じったような匂い、何百年もその上を人が歩いて丸みを帯びた冷やりとした石の床、そういう場所で展示すべきだった。せめて東京国立博物館か国立科学博物館のような歴史が刻まれた建物で。天井が高過ぎる、明る過ぎる。
クリスチャン・ボルタンスキーは、展覧会は娯楽や楽しみの場所ではなく、祈りや深い考察のための場所と主張していて、美術館に来たことを忘れさせる工夫をしたり、美術館以外の場所でインスタレーションを行っている。
「クリスチャン・ボルタンスキーの可能な人生」読書メモ - 電子計算機舞踏音楽
祈りの場所は対象と対峙できるように、それだけがある囲まれた場所でなくては。ぴったりと壁に寄せて等間隔に並べられた作品は、教会の壁から外されガラス板をはめた額縁に入った宗教画のようなもので、本来の役割を失い「死んだ」展示物になってしまっていた。「死んだスイス人の資料」も会場の天井が高いので、積み上げた高さが感じられない。狭い通路にそびえ立つように並んでいなければ。ホワイトキューブの壁に映し出される「影(天使)」の残念さ。作品リストの写真にあるように、歴史ある建物のドーム天井に映されるのとでは全く違う。
「ぼた山」
広告のせいで骨組みの映像が頭に浮かんでしまい、「中が空洞のやつね。」としらける。最悪。
「発言する」
板に黒いコートがかけられていて、顔の部分に電球。複数体かあり、近づくと胸のあたりのスピーカーから声が聞こえる。「怖かった?」「お母さんを置いてきたの?」「光が見えた?」などこの世から亡くなった人に対するような質問。あたかも自分が死んでいるかのような質問されることにより、死後のことを考え、逆に自分が生きていることも実感する。インスタレーションとして良かったのだが、声が。日本語と英語が得意な人を採用したのだろうけど、まるで英会話教材。若い男性の英語が張り切っていて引く。突然車に轢かれて天国に来ちゃった人に、そんな声のかけ方する?おじいさん/おばあさんや子供がゆっくり話してくれたら、雰囲気が出て作品に入り込めたかも。
「スピリット」
「ミステリオス」
クジラの骨、風が吹くと音を出すオブジェ、海の映像が3枚別々のプロジェクターに映し出されている映像作品。これが一番良かった。クジラの鳴き声は聴いたことがないが、いかにも巨大生物らしい鳴き声。風によりこの音がリアルに鳴らせているのであれば、造形物自体もクオリティが高いのでは。巨大生物の鳴き声でありながら、怖さや煩さはなく、静かな波の音も重なり癒され穏やかな気持ちになる。それほど大きくないBOSEのスピーカーだった。
「白いモニュメント、来世」
「黄昏」「黄金の海」「保存室(カナダ)」
入口で渡された案内図だと撮影不可だったが、係りの方が動画フラッシュ以外の写真撮影は可能だと言っておられたので撮影。どこからか干し草のような匂いがした。会期終盤だったので「黄昏」のライトはほぼ消えていた。「黄金の海」の上から吊るされたライトは左右に振り子のように揺れていて、写真を取ったら火の玉のようになった。「保存室(カナダ)」の壁面が小さくて、大事な数が感じられない。これじゃ商業ディスプレイ。
「その後、ピック」
「黄金の海」同様、電球が天井から吊るされてて左右に大きく揺れている。子供の写真が取り付けられた長い支柱の影が床で大きく揺れていた。
本来一つ一つ向き合うべき作品が、部屋数が少なく一部屋が大き過ぎるため複数詰め込まれている。光はまだしも別の作品の音が干渉し集中できない。わざわざ見に行った展示で1時間もいてられず出てきたのは初めてだった。インタビューを読んで考え方自体はとても好きなアーティストなので、「最後の教室」や歴史ある建物での展示だったら見てみたい。