「クリスチャン・ボルタンスキーの可能な人生」読書メモ

もしかして一番予習しちゃいけない展示だったかも。六本木アートナイトでドキュメンタリー「クリスチャン・ボルタンスキーの可能な人生」を観たときの心の動きが忘れられず、知りたい欲求に負けて図書館にあった2冊を借りてしまう。300頁の自伝インタビューと評論家解説付き図録をしっかり読み込んでしまった。あまり本は読まないし、バイアスがかかるのが嫌だから美術展に行く前のインプットはしないのに。
クリスチャン・ボルタンスキーの可能な人生
クリスチャン・ボルタンスキー Lifetime
自伝インタビューである「クリスチャン・ボルタンスキーの可能な人生 」がとても良かった。ポンピドゥー・センターのキュレーターでありボルタンスキーの友人でもある方が、1年間毎週彼のもとに通いインタビューしたもの。ボルタンスキーのことをよく理解し、彼からも信頼されている人だからこそ、多くの深い話が引き出せたと思うし、ボルタンスキー自身も見栄を張ることが一切なく包み隠さず話していて、とても謙虚な人だと思った。共感する内容が多く、何度もうなずき、読むのを止めて自分の考えを整理した。理解し共感できたのは、翻訳が優れていたのもあると思う。ボルタンスキーと20年来の知り合いで、おそらくファンであろう佐藤京子氏の翻訳。フランス語と日本語の表現の違い、特に芸術や感情表現は特に難しいのでは。佐藤京子氏自身がボルタンスキーの思考や作品を理解しているからこそ、平易な日本語での翻訳が可能だったのだろう。佐藤京子氏が日本人で良かった。f:id:senotic:20190613203631j:plain引きこもり
クリスチャン・ボルタンスキー氏は、不登校で引きこもりだった。両親は経済的余裕と本人への理解があり、資金や文化教養に触れる機会の提供を惜しまず、家族ぐるみで支援。両親がギャラリーにお金を払い、ボルタンスキー氏がギャラリーで働けるようにまでした。違う家庭に生まれ育っても、同じように才能を開花させられただろうかと考えてしまう。

アートとは
デュシャンの体現を「思考過多な感情のないアート」と言ったり、他のアーティスト作品についてリスペクトしつつも率直に話していて面白かった。膨大な空間に椅子を五脚だけ設置したミニマルなインスタレーションはやりたくないのは、観客に「全く現代アートのアーティストってのは、どいつもこいつもふざけた奴ばかりだ!」と思いながら帰ってほしくないからだそうで、思わず笑ってしまった。「アーティストというのは、顔の代わりに鏡を持っている人間で人々が彼を見るたびに『これは自分だ』と思えるような存在」、鑑賞者が自分の過去の記憶と結び付けたり、自分のこととして感じたり考えたりすることを許す、というよりそれを狙っている点が好きだ。芸術に対して正しい解釈をしなければ恥ずかしいと、ありのままに感じることにブレーキをかけている人は多いのではないだろうか。

場所
クリスチャン・ボルタンスキーは、展覧会は娯楽や楽しみの場所ではなく、祈りや深い考察のための場所と主張していて、美術館に来たことを忘れさせる工夫をしたり、美術館以外の場所でインスタレーションを行っている。観客が「現代アート」を見るという先入観を持って美術館に来ることで、「現代アート」の既成概念に縛られてしまい感動を失ってしまうことが問題と述べている。今回の展示ではキャプションがないそうだ。よく分からない状況で作品を見せられたら感動が生まれることがあるとも話しているが、私は逆のケースが多いように感じている。道端で売っていたら見向きしないのに美術館にあるだけで価値を理解しようとしたり、ホワイト・キューブ効果というのだろうか。彼の美術館以外での展示の話は、岡ともみ氏の地下ボイラールームでのインスタレーションを思い起こさずにはいられなかった。六本木アートナイトでの津田翔平氏の作品も、残された什器という「存在」と、使う人はもうおらず什器として使われることはないという「不在」、そういう受け取り方もできる。クリスチャン・ボルタンスキーやそういった有名な名前冠がなくとも、何かを感じ考えることのできるアートの価値を理解する人が増えるといいなと思う。

万人は聖人、個人の唯一性
家族や友達は批判できないのに、例えば女性や韓国人と一般化すると簡単に非難できてしまうことについて、しょっちゅう考えている。「軍人がユニフォームを着るのは、もう個ではなくなるためだ。軍服を着た途端グループの一部となって、交換可能になり、殺すこともできるようになる。」「名前をつけるということは、既に一人の人間を個として示唆することだ。刑務所とか独裁者の国では、名前を廃止して番号で置き換えようとする傾向があるだろう。」最近、私は自分が個に執着していることを自覚するようになった。自身が個として尊重されてきた実感がないことが起因しているように思う。フォロワー数のキリバン、ヘッドカウントという言葉、人の写真の顔の部分をモノや他人の顔にすげ替えるコラージュなんかが物凄く苦手。「人間が誰でも持っている悪を犯す可能性、殺される者と殺す者の間にははっきりした境界線はないということ。」私は苦しみが増すような残虐な殺し方をしたり虐待する人のことを、善人だと思おうと努力する気はない。けれど「万人は聖人」と考えることに、理想というか憧れがある。実際、家庭を愛し良き父である人が部下を陰湿にいじめ抜き、自主退職に追い込む様子も目にしてきた。置かれた状況や権限を持つことで、普通の人が恐ろしいことをしてしまうことは理解できる。「僕にとっておぞましいのは他人に対して権力をもつことで、救う権限を手にするのは、殺す権限を持つのと同じくらい恐ろしい。五人を救うというのは十人は救えないわけで、そこには選択がある。」

その他、下記の点がクリスチャン・ボルタンスキーの作品の魅力だと思った。
・どこにでもある安価なものでできている
・感じ方の自由が許されている
・鑑賞者に配慮されている
・作品は残らず作家の死後再解釈できる

アーティストとしての成功要因や苦悩、評価されることについても話していて、現代アートや視覚芸術だけでなく幅広いアーティストにとっても共感できる内容ではないかと思う。4,500円と少し高価だが、講演会では話しきれないほどの内容がつまっていて、佐藤京子氏の翻訳も考えるとそれ以上の価値があるのでは。

Copyright © 電子計算機舞踏音楽 All Rights Reserved.