六本木アートナイト2019 (津田翔平 志茂浩和 クリスチャン・ボルタンスキー)

脇田玲 × AIBA × 瀬戸勝之「under the sea」
これが目当てで、今年はアートナイトに行ってみようと思った。 #VJ概論で何回もお名前が出てきたAIBA氏のライティング、会場も気になっていたSEL OCTAGON TOKYO、しかもデイタイム東京ミッドタウンから国立新美術館に行く途中、ブルーボトルコーヒーの少し手前。入口が地味で一度見落として通り過ぎた。係りの方に「大通り側から入るんだと思います。」と間違った情報を教えられたが、戻る途中で無事発見。f:id:senotic:20190529214454j:plainエントランスに囲いなしのレーザー、鏡を使って曲げてある。f:id:senotic:20190529215103j:plain中に入って通路右側に男女のトイレ。女性トイレは、アラウーノかしら泡洗浄、個室にタンポンも置いてあり、洗面蛇口はダイソン、ジェットではなく布タオル。フロアに行くまでの青い照明の通路にロッカー、鍵は刺さっていなかったがどういう仕組みだろう。f:id:senotic:20190529215143j:plainフロアは小さかった。キャパ700人も入るのかな?CIRCUS Tokyoくらいの大きさに感じた。スタッフの方も黒服で、渋谷のクラブとは全く雰囲気が違う。最初に六本木のクラブに行ったら、その後行かなかっただろうな。
作品自体は眩し過ぎて鑑賞どころではなかった。1つのレーザーの光が通り過ぎたら、また別のが来る。3分で退散。f:id:senotic:20190529215219j:plain

津田 翔平「KYO-ZO」
これが素晴らしかった。並びなおして4回見た。古いビルの1階、レストランだった場所に残された什器に赤色レーザーをあてる作品。部屋の中へは入れず、廊下から観賞する。角度を変えて2重に重い暗幕が貼ってあり、入場者も3名程度に制限され開け閉めの回数も少ないので、外からの光は一切入らない。光のパターンが膨大、しかも動いているため、光源がどこにあり何か所あるかは全く把握できなかった。音もまた素晴らしい。ウィーン、ガチャンといったインダストリアル系の音なのだが、偏りがなくスピーカーの存在を感じさせない。あたかも無数にうごめく赤色レーザーの光や照らし出される什器から音が出ているようだった。網目状の金属をレーザーがなめているのか、赤い点の光が火の粉ののように空間に散る様子が特に美しかった。これだけレーザも什器の配置も複雑なのだから、反射光がこちらに飛ぶことも覚悟していたのだがそれは全くなく、よほど十分な設計か確認をされたのだなと思った。最近はクールな印象に仕上がる青色や白色光が使われることが多いが、レーザーポインタなど工業的で安価な印象の強い赤色レーザーも、扱い方でこんなにも美しいのかと衝撃を受けた。OCTAGONで見た作品と何もかもが正反対。「こういうことだよな。」と腕組んでぶつぶつつぶやきながら、次の作品に向かうため六本木の街を歩いた。f:id:senotic:20190529221943j:plainそう言えば、田原桂一氏の遺作となった、レーザーを曲線変形プリズムにあて、出てくる光を壁に映す作品も赤色だった。あれも本当に美しかった。

志茂浩和「囚われる人」
地図にあった場所ではいくら探しても見つからず、他の作品も場所が変更になっていて彷徨ってるときに偶然見つけた。ポリカーボネートの波板が貼ってあったようで、磨りガラスのように少し下がるとぼやける、近づくとハッキリ見えることで奥行が感じられる。ガラスに押し付けられてつぶれた皮膚の様子もリアルさを増していて、時々本当に人が入っているような感覚に陥る。役者さんも、リアルに見える動きを意識してパフォーマンスされているようだった。人物も動きも多様で見ていて飽きない。周りにいた人もくぎ付け、外国の方も大盛り上がり、子供からお年寄りまで幅広い人が楽しんでいた。ツイッターで回ってきていたアムステルダムの時計(中に人がいて時計の針を消したり描いたりする)も、ついつい見入ってしまうし、こんな楽しい広告なら歓迎だ。

MOE+「イマーシブシアター『#透明人間』」
こちらも作品探して彷徨っていてみかけた。地面に靴、ヘッドフォンが宙に浮かんでいる。透明人間の影だけが見える。f:id:senotic:20190529214253j:plain

「クリスチャン・ボルタンスキーの可能な人生」
国立新美術館 1階のオープンスペースで、スクリーンではなくコンクリートの壁に投影されたドキュメンタリー映像を鑑賞。自分の勝手な解釈の上でだが「うわ、めっちゃわかる」と共感しきり、自分の活動とも重ね合わせてしまい、かなり食らった。
<メモ>(記憶頼りのため正確でない可能性有り)
・母はフランス人、父はユダヤ人のため出て行ったことにして床下に隠れて暮らしていた。
第二次世界大戦終戦の年生まれ)出生届はすぐに出されなかった。
・18歳になるまで一人で外に出なかった。
・有名人ではない普通の子供の写真を集めたが、そこに自分の写真はなかった。
・ただ一人として同じ人生はない。
・同じ建物にAとBとCが住んでいて、爆撃を受けてBだけが亡くなっていた
Bはなぜ死ななければならなかったかを調べた。
元々住んでいたユダヤ人が追い出され、その後に住んだ人が亡くなっていた。
・個は時代には逆らえない。
・老婆の遺品買取りが始まりで、収集を続けるうち誰が誰のだかわからなくなった。
・被害者と犯罪者両方の写真が載った雑誌2年分、写真だけを切り取ると見分けがつかなくなった。
・建物の解体時に地下にあった大量の個人に関する膨大な資料が廃棄されようとしていたが、それを止めた。
・心音を収集、ネットにも公開できるが、日本の小さな島で聴けるように。
家族の心臓の音を聞きに、日本の小さな島に行くのもいい。
・廃校の床に藁、上には電球。扇風機で揺れる。電球は昔そこにいた子供の数。
・写真は生きていた記録なので撮った瞬間に死になる。
・個人の記録を残そうとしたが、年を重ね難しいとわかった。
 物を残さないインスタレーションをするようになった。
収集するモノに対する感情や収集に駆り立てられる心情については語られなかったが、対象が対象だけに単なる好奇心とは思えず、個に対する愛着は少なからずあるように受け取った。以下、括弧内は私の解釈。
〇有名人ではないごく普通の個(に対する眼差し)
〇個であったのに集まることで個が見えなくなる(せつなさ)
〇被害者と犯罪者を区別せず、それぞれ個人として見る
〇個人の生きた記録(に対する執着)
何者でもない人の書いたものや写真が捨てられているのを見ると、消え去ってなかったことになってしまう切なさに苦しくなる。人の生き方が染みついた家や建物が取り壊されている様子は、特に苦しくて何度経験しても慣れることがない。歴史ドキュメンタリーやニュースで見た様々な亡くなり方をした、見ず知らずの人の情報が記憶にたくさん残っていて、ときどき思い出す。亡くなってしまった人を思うことで、自分が生きていることを考えているのかもしれない。パソコン音楽クラブの活動を記録し始めた頃は、単に自分が忘れたくないのと同時に、私がやらなくてはみたいな気持ちにもなっていた。最初のイベント出演から今までの全フライヤーを集めているのは、最初は出演が多いから自分が把握するためだったが、どうせなら他の方もどうぞというのもあったし、近所で遊んでた子がテレビ出るようになって、嬉しくなって出ている雑誌切り抜いて集めてみたいなのもあったように思う。それほど有名ではないDJのミックス、1つ1つに愛着をもってしまう。有名とは言えないプロデューサーやDJの作品を愛でるのは、価値があると感じているからであって、ボルタンスキーは被害者と犯罪者も分けずに捉えているので違うのだろうけれど、見過ごされる個に対して目を向け執着している点に勝手に共感してしまった。徳を積んだとか関係なく、残酷なことは起こる。人は生きる時代を選べなくて、翻弄される。どんなにこの愛おしいモノや作品を保存し遺そうとしても、ごく限られたもの以外は無くなってしまう。コピーされどこかに残っていそうなネット上の情報も、意外ときれいに消え去っている。自分の人生の一部を使って、何か記録を残そうとしていることも、割と簡単に消え去ってしまうのだろう。
ドキュメンタリー映像から受けた印象が、来月の展示を見てどう変わるか楽しみだ。

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