Destiny Rogers(超幸せな子供時代、教会音楽で育つ、両親の離婚)
Destiny Rogersがインタビューで語った内容。
Destiny Rogers On Busking To Signed Artist, LiLi's Film, & 'Got It Like That' | Daebak Show Ep. #124
生まれ
Destiny Rogersは、1999年9月13日、カリフォルニア州の小さな町Lodi(ロダイ)で生まれた。Lodiは、カリフォルニア北部の盆地に位置し、Sacramento(サクラメント)から南へ約40分の距離にあり、Stocktonの隣町である。カリフォルニアの海沿いからは、1時間半ほどかかる。ワインの産地として有名で、多くのワイン畑が広がり、ワイナリーの数も多い。Napaのように、多くの観光客がワイナリーにワインテイステイスティングに訪れる。Lodi産のワインは、アメリカの他の州やヨーロッパでも見かけることができる。
お酒
Destiny Rogersは、Lodiのワイナリーで働いていたことがあるが、ワインは好きではない。蒸留酒、テキーラを好む。ロックか、ライムを添える。発泡酒では、White Clawが大好き。テキーラは、Don Julio(ドン フリオ)などが好み。
家族について、年の離れた現在34歳の姉が一人、姉の子の姪と甥が一人ずついる。姪は13歳、甥は5歳、姉より姪の方が年が近い。8歳の時に姪が生まれ、同居していたので、姉妹のように育った。
超幸せな子供時代
子どもの頃はソフトボールやバスケなどのスポーツをしていた。ソフトボールは9年間とかなり真剣に取り組んでいた。
教会に深く関わる家族だった。毎日のように教会へ行き、家族は教会の職務を担っていた。父親はworship leader(礼拝での音楽に関わる仕事)をしており、一時牧師だった。母親は聖歌隊にいた。教会でのバンド練習や礼拝者ミーティングなどで、毎日のように教会へ足を運んだ。教会のキッズプログラムによく預けられ、参加させられた。
学校へ行くようになると、友達ができ、近所の子は皆友達だった。今も家族が住むその家を、とても愛している。
教会音楽で育つ
音楽に触れ始めたのは10歳の時で。最初は教会の音楽からだった。教会音楽は、Destinyに間違いなく大きな影響を与え、音楽への興味を持たせてくれた。ドラム・ピアノ・ギター・ベース・トランペットのように異なった楽器が鳴っている音楽にずっと関心を持っている。礼拝バンドには、ボンゴやタンバリンといったパーカッションまで、あらゆる楽器が参加していた。日曜礼拝の後などに、近づいて行って勝手にさわっていた。最初ドラムに興味を持ったDestinyに、両親は鍋や釜をドラムのように床に並べ、スプーンを2つもたせ叩かせていた。5歳か6歳になると、ウォルマートでドラムセットを買ってくれた。
教会では、多くのHillsongを歌った。Jesus Culture『Happy Day』、『Scandal Of Grace』『Take It All』など、2000年初頭のHillsongを。成長するまでは、宗教色のない音楽に傾倒することはないほどであった。
Destinyは、大人になった今も信仰は深いと断言する。日曜は教会に行かず寝ていたいと思うが、紛れもなく神はどこにでもいると強く信じており、祈りは毎日のスケジュールに組み込まれ、人生の一部である。人生において良いこと起き道が開かれれば、それは神によるものだと思っている。神が、Destinyのためにドアを開けたと。こういったポッドキャストに出演し、多くの新しい視聴者と支持者を得るというチャンスも、神の計画であると考える。聖書の物語は信じ難いが、Destinyは聖書を、そしてイエスが人間の罪により亡くなったと信じている。
両親の離婚
幸せな子供時代を送ったDestinyは、悲しんだり落ち込んだり、不安になったことがなかった。両親の別れは人生で傷ついた瞬間であり、完璧な家族ではなかったけれどなぜバラバラにしたのだ、全て神のせいにした。離婚が進むこと事態が辛いことだが、娘として裏切られたような気持になった。結婚のような関係性は、決して完ぺきではないとわかったけれども、両親はそれに固執していた。Destineyの姉は子どももいる十分な大人で当時彼もいたが、Destineyはまだ10代の子どもであり、また、Destineyの友達の家庭は完璧でお金があって、悩みや不安を話せる友達がいないように感じていた。離婚が現実になりつつあり、その時が来ていることはわかるにつれ、激しく打ちのめされた。Destinyの両親のどちらが出て行って、どちらが家を維持するのかとなり、母親が家に残ることになった。父親が出ていき、家の中から父親のも物がなくなり、家の外を覗けば父親の車がないのを目にしたとき、父親はもういないことを実感し、Destinyは打ちのめされた。父親の家では、心から寛げたことはなかった。なぜなら母親が耐えていたから。
当時、Destinyの母親は仕事を失い、仕事を得るのにとても苦労していた。両親が別居したときDestinyは15歳で、離婚が成立したときは16歳だったため、働くことができなかった。家や車を失いかけるほどお金がなかったが、Destinyの叔母が食料を補給し、車や家のローンを肩代わりしてくれた。母親は全額返す方法を模索したが、経済的に破綻しており、食事を抜いたりもしていた。空き缶集めや、ジュエリーを質に入れたり売ったり、ガレージセールをしたり、できることは何でもしたが、何か月か電話が止まったりもした。Destinyは、投げ銭路上ライブやオープンマイク(自由参加のライブ)の仕事を始め、ソングライティングも始めた。人生のどん底で、助けを必要としており、何かする必要があったからだ。ただ紙に書き、自分のギターで歌った。その後、母親は仕事を見つけ、状況は徐々に良くなっていった。Destinyは、18歳になっていた。元に戻るまで2年を要した。
高校を卒業するまでは音楽の仕事しかしていなかったが、17歳で卒業してからは、いくつかの仕事をかけもちしていた。18歳になる直前に知り合いの紹介でスターバックスで働き始め、ワイナリーでの仕事も得て、結婚式のテーブルを片付けるウエイトレスもやった。父親の会社の受付の人が辞めてしまったので、それも引き受けた。
Destiny Rogers - Kickin' Pushin'
(MV冒頭場面、Destiny演じる女の子が家に帰宅すると、自暴自棄になって家をめちゃくちゃにしている母親が。コーヒーショップでバイトするシーンもあり、「今、ママは最大限懸命に働いている 私が家のローンを払うと約束する」という歌詞。)