Dorian Electra ノンバイナリーより性別流動がしっくりくる

Dorian Electraの最新のインタビュー、一部和訳した。ちょうど私が知りたかったことの答えも。写真のアートワークが良いので、元の記事も是非。
DORIAN ELECTRA | QUAZAR MAGAZINE

セルフ・エンパワーメントと自己受容に溢れる音楽により、Dorian Electraは、クィアジェンダーの探求に対する姿勢で、他のアーティストが過去にやったことのない方法で視覚と表現を促進し、文化と社会的変化を開拓し具現化しました。

ご存じの通り、私が個人的に考えてきたことと、興味があったことのかけ合わせです。「とても女性っぽい」と認識されていると私が思う、ポップミュージックを用いて、私が観られ表現することで充足感を味わえる男性的な方法で提示するのは、とてもエキサイティングだともわかりました。より男性的な傾向のある多くのAFAB(Assigned Female At Birth、生まれたときは女性にアサインされた人)の人々にとっては、その表現があることが重要だとも感じています。 私の音楽は、間違いなくそれを聴く聴衆によって形作られ、その意味は常に変化しているという事実も示したいとも思います。 それは一人歩きし、観ていてとても興奮しますし、興味深いです。

ポップミュージックは女性っぽいと、言語化されたのを初めて見た。男性の批評家やライターが評価する音楽が、私には「とても男性っぽい」とずっと感じてきた。ということは、私が好きな音楽は、きっと女性っぽいのだろう。作品の評価に男女差が出るかを調べたときも、Dorian Electraを評価していた多くは女性だった。データはないが、Arcaは男性からの評価が高いように見える。
男性的な傾向のあるAFABの人たちのロールモデルが少ないのは、日本だけじゃないのね。

ー我々があなたが作るキャラクターやバイブスについて話すと、強烈な政治・社会・哲学の問題を、美しく風変りな未来的ポップバップに変える能力があります。あなたのやり方で、あなたに物事を切り抜け道を開かせていると感じる音楽とは、どんなものですか?

私がその一部だと感じるから面白いのであって、それらの要素のない音楽を書くのは、単にとてもつまらなくなったからです。なので、重要なトピックに反響したり、より深い意味のある音楽を作るモチベーションがあります。個人的なレベルにおいては、歌が私にとって重要なことに何も関係がなかったり、本当に説得力のあるビジュアルを持たないときは、スタジオに行こうと滅多に努力しません。

 私も、メッセージ性がない音楽がつまらなくなってしまった。やはり、本人のモチベーションがあって、楽しんで作っている作品は魅力的。ただ空っぽの歌詞でも、メロディやダンスが突出して優れている作品には惹かれるけれどね。

ー「クィアアーティスト」とレッテルに、共感するところはありますか?それとも、単にクィアな人々を箱にしまい込む別のやり方だと感じますか?

個人的には、私はそれについて本当に感謝しています。我々をより認知させてくれるプラットフォームがあることに感謝しています。しかし、一歩下がって全体像を見ると、確かに少し「トレンド」的ななものでした。音楽におけるクィアの認知と表明の観点から、特に有色のクィアの人々にとっては、道のりはまだまだ遠いです。ですから、クィアアートをより認知させるために用語を使うことは重要だと私は感じています。総合的に、その両面を見ることができますが。

ちょうど知りたかったこと!先日のブログでも書いていた通り、クィアアーティストとして紹介することのメリットは大きいけれど、躊躇いはあって悩んでいたから。フェミニズムが性差別でないかという議論と、共通するところはあるかも。女性と男性が同じスタートラインに立てていない場面が多いので、男女で分けて、平等かどうか確認してみる必要がある。クィアクィアアートも、日本での認知や理解はもっと遅れているから、今はまだ、クィアを前に押し出してもいいかも。もちろんそれだけを売りにせず、たとえクィアでなかったとしても、十分魅力ある作品だときちんと説明できていれば。

ー性別との社会やメインストリームの関係を大きく見たとき、より受容的で教育された世界へと前進するために、主にどんな変化が為される必要があると思いますか?

言葉です。ノンバイナリーの方がよく使われている用語にもかかわらず、私は常にノンバイナリーの代わりに性別流動という用語を使ってきました。最初に「ノンバイナリー」と聞いたとき、私はそれをほぼ否定的なものと見なし、それが何を意味するのかを全く理解していなかったので、本当に興味がありませんでした。「ノン」という言葉について、「あぁ、あなたはどちらでもないと認識するのですね。」みたいに思いました。わかるでしょ?私は、「Agender(1つの性)」という意味だと思いました。私が自分自身をノンバイナリーだと見なしているにもかかわらず、正に性別流動という用語に、より共感した理由です。正に流体が、よりもっとしっくりくるようで、私にとっては、それが何であるかと、性の分布の中での流動性であることを、説明しています。スペイン語・イタリア語・ドイツ語などの多くの言語では、単語が「男性的」または「女性的」でないと使用できないため、ジェンダーニュートラルな代名詞がある英語という言語で、私たちはとても幸運です。昨年11月Charliとのヨーロッパツアーで学びました。多くのヨーロッパのファンは、私についてどうやって言及してよいかわかりませんでした。その便利な言語を壊すだけでよいのですが、彼らの言語に組み込まれていないので、それがいかに難しいかを表明しました。


ーもちろん、私はこれを最近発見したばかりで、これが多くの性非同一者が対処しているような問題であることも、全く知りませんでした。 家具でさえ性別が! 「クイア」がこれほど重要な言葉だと思う理由は、私たち全員が様々な方法で共感できることからです。性別や性同一性の受け入れに苦労している可能性のある若者に、どのようなアドバイスをしますか?

「覚えていて下さい、全ては旅です。」と言うでしょう。あなたが誰であるかを「発見」または「打ち明け」なければいけないようなプレッシャーを感じないで下さい。時間をかけて探求し、全ての人間は、異なり、動的で、個人としても集団の一部として成長し続け、変化している途中であることを知って下さい。私自身、このように自分を見ることが、とても助けになり、自分の性別と自己との関わりにおいて、罪悪感を感じるのをやめました。全力で、旅を楽しみ、あなたがどんな人間であるのか、全ての面を受け入れようとして下さい。

 5月に、雑誌『PLAYBOY』のグラビアにも採用された。男性向け成人雑誌のグラビアに、LGBTQ+モデルが登場することの意味。

瓶を頭で叩き割るのは、Dorian Electraお決まり。ユーモアを忘れないところが、またかっこいい。

性別・年齢・国籍、あらゆる差別について、積極的に理解に努めてきたつもりだ。ただ、LGBTQ+については、センシティブで、下手に聴いたり発言したりして、傷つけたり批判されたりすることを恐れ、当事者でない自分が積極的になることに躊躇していた。理解を深めるモチベーションもなかった。
そんな中、Dorian ElectraやL Devineの作品に出合った。シス女性だから理解できないなんてことはなく、意外とシンプルなのかもしれないと思った。もちろん当事者の理解を超えるはずはなく、ゼロよりはというレベルで。実はこの一文も、最初は「ストレートの自分」と書いていて、「シス女性」と書き直した。努力し気を付けていても、意図せず当事者を傷つけてしまい、怒られそうで怖い。
Dorian ElectraやL Devineの作品を理解し易くに感じたのは、女性的な観点のある作品だったからではないかと感じている。誤解や批判を恐れず正直に言うと、Dorian Electraの作品を観たとき、宝塚歌劇はこういう感覚なのかもしれないと感じた。女性から見た、良い意味での男らしさ。外から客観視した男性像のデフォルメ。また、L Devineが歌う恋の歌は、女性が男性に恋する気持ちとなんら変わりない。それなのに、性別が同じことで越えなければいけない壁に出くわす、とても切ない歌だ。シス女性が大いに共感できる部分と、異性愛者には見えない苦悩が表現されており、当事者を疑似体験するような気持ちで、歌詞をかみしめた。
過去、少なからず、テレビに出ているトランスジェンダータレントのイメージに影響されてきた。テレビには、男性の体に生まれ女性の傾向がある人や、ドラァグクィーンの人が、多く出ていた。テレビの演出だろうか、言葉遣いは女っぽくても、それらの人々の考えや振る舞いは、男性的だった。日本のクラブ界隈のゲイカルチャーと呼ばれるものも、マッチョで多様性に乏しく排他的であるように感じている。日本でも多様なLGBTQ+の人がメディアに露出するようになり、Dorian ElectraやL Devineのような人も出てくると理解が広まるのでは。

当事者ではないシス女性の私がこの内容を書くことについて、リスクもある。それでも、このDorian Electraについて、公共の利益というのは言い過ぎかもしれないけれど、誰かの役に立ちそうな気がしていて、そう信じてシェアしている。黒人差別も、白人が理解し行動を変えなければ、根本的に問題は解消しない。フェミニズムは、女性だけの話ではない。
私も、まだまだunconscious biasをたくさん抱えている。海外の人とやりとりすときは、最初に必ずこう伝えている。「私はあなたを尊重し礼儀正しくいられるよう努力するけれども、あなたと私の言語と文化は異なっていて、意図せず失礼なことを言ってしまうかもしれない。それは無知なだけだから、遠慮せず指摘して教えてほしい。」大抵の人は理解してくれて、面倒なはずだけどちゃんと教えてくれる。指摘されたときは恥ずかしいが、その分二度と似たような間違いをせずに済む。
触れてはいけないテーマにせず、多様なLGBTQ+の人の視点を入れてカジュアルに議論ができることが、理解につながり、差別の解消になるのではないだろうか。

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