雑記 あいちトリエンナーレ 「表現の不自由展・その後」展示中止
「表現の不自由展・その後」の展示中止について、調べたことと自分の考えをメモ。
調べたこと
まずコンセプト。そもそも政治はテーマだったのね。
「政治は理屈のみで考えるものではなく、芸術とも根を同じくするもの」
語源的に「アート」が元々「政治を対象に含む一群の学芸や技芸」として理解されていた
われわれが見失ったアート本来の領域を取り戻す舞台
「表現の不自由展・その後」は展示の肝で、津田大介氏は監督として裁量があった。
本展は、ジャーナリストである津田大介芸術監督が2015年に私たちが開催した「表現の不自由展」を見て、あいちトリエンナーレ2019でぜひ「その後」したいという意欲的な呼びかけに共感し、企画・キュレーションを担ってきました。
「戦後日本最大の検閲事件」。「表現の不自由展・その後」実行委員会が抗議文|MAGAZINE | 美術手帖
「表現の不自由展・その後」は津田大介氏のこだわり。津田氏「僕がコミットできる企画でもあるんで、僕の肝いりの企画としてやりたい」
約80組の作家選びは当初、学芸員に任せるつもりだった。ところが、上がってきたリストを見て「ピンとこない。これはまずい」と方針転換。自ら決定権を握った。「僕はそういう(人の権利を奪う)タイプの人間ではありません。でも、そうしないと『情の時代』というテーマにこだわった内容にならないと思った。
<金曜カフェ>ジャーナリスト・津田大介さん あいち芸術祭 監督として:北海道新聞 どうしん電子版
「表現の不自由展・その後」の作品の一覧。
表現の不自由展、中止 あいちトリエンナーレ:一面:中日新聞(CHUNICHI Web)
出展作家 | 表現の不自由展・その後
「表現の不自由展・その後」とは
報道や娯楽番組、天皇と戦争、植民地支配、日本軍「慰安婦」、靖国神社、国家批判、憲法9条、原発、性表現、残酷表現など。その不自由のあり方もさまざまです。検閲、規制、忖度、弾圧、クレーム、NGなど。
本展では、この問題に特定の立場からの回答は用意しません。自由をめぐる議論の契機を作りたいのです。
黒瀬陽平氏
公立美術館では、ほとんど前例がない美術展。だが規制にもいろんなレベルがあり、すべてを「表現の自由」でくくるのは、危険な面もある。規制された作品を集めただけでは、スキャンダリズムと変わらない。
東京新聞:<くらしデモクラシー>あいちトリエンナーレ あすから「不自由展」 「政治性」で規制の作品:社会(TOKYO Web)
「表現の不自由展・その後」に「時代の肖像―絶滅危惧種idiot JAPONICA円墳-」を出展した中垣克久氏。
この“隠す”が意味するのは、作品の展示内容を事前に開示しないこと。中垣氏はこれに怒りを覚えたといい、「ちょっと作家を馬鹿にしてんじゃないの。俺たち芸術家だよと。自分で作ったものをそういう風に出したこともないし、尊厳はないのかということを言った。そうしたら、『慰安婦の像で問題になるだろうから』と。炎上することを最初から分かってやったのかなと、後からそういう気がした」と明かした。
中垣氏は「私は偏っていてもいいと思う。その次にまた別の方に偏っても、それを受け入れる。多様性に対応できるものがないとダメなんじゃないかなと思う」と反論。
説明なく自身の作品と少女像などが並んだことについては、「なんで一緒にいなきゃいけないのと。あれは工芸と一緒で“用の美”、使用するための美だ。僕たちはファインアート(純粋芸術)で、なんの意味もなく作っている。例えば、僕が政府を批判するなら、あんな難しいことを2カ月も3カ月もかけてやるわけない。あの少女像は『みんなで慰安婦の問題をやろう』とするテーマ、シンボルにしたわけで、それならゆるキャラと一緒。それと俺をなんで一緒にするんだよと。最初から聞かされていなく、なぜそういうものが美術の中に入ってくるのか違和感が拭えなかった」
「炎上させずに実施できたはず」表現の不自由展中止に出展作家が反論、“少女像”と自身の作品「なぜ一緒にするんだと」 | AbemaTIMES
考えたこと
作品一覧を見て、津田大介氏の政治的立場を支持するような作品ばかりで偏っているなと思った。男女のバランスはとったのに、左右のバランスは?軍歌や天皇崇拝、不自由の例として挙げている性表現や残酷表現の作品も入っていたら、もう少し違った議論になっていたかも。政治も巻き込みこれだけ大きな議論になっているので、主催と作品の狙い通りで大成功している。
政治と芸術について考えてみた。確かに。具体例があるとわかりやすい。
貴方の考えは根本的に間違っています。これはピカソが描いた「ゲルニカ」という作品。日本には原爆の悲惨さを描いた原爆の図もある。貴方が言う「芸術」には、彫刻、絵画、音楽、映画、演劇、朗読劇、小説等沢山ある。政治と切り離せという主張は表現の自由を蔑ろにする暴論。https://t.co/9PRwhOHCid pic.twitter.com/b2N954m6s5
— ぼっけもん (@yko1998) August 3, 2019
政治と関係ある芸術を教えてくれってか。例えばこれなんかどう。ちょっと難しすぎたかな。 pic.twitter.com/gKlVBiNfrb
— 黒田充@マイナンバーこのままで良いの? (@mitsuru_kuroda) August 5, 2019
芸術と政治を考えたときに思い出すのは、NTT ICCで鑑賞した能量的風景。台湾にも原発や放射性廃棄物貯蔵施設があり、その近くに住む台湾人アーティストが東日本大震災をきっかけに撮影した映像作品。ドローンやケーブルカムを用い、台湾の原発や放射性廃棄物貯蔵施設、廃墟、東京湾を撮影した映像に音が加えられている。淡々と実際に存在する風景の映像が流れているだけ。説明書きもナレーションもなし。原発に抗議する人は出てこないし、かといって原発で豊かに暮らしているという映像でもない。鑑賞者が考え、自分で解釈できる。芸術の力は凄いなと実感した作品。
2015年開催の「表現の不自由展 消されたものたち」を鑑賞された方のブログ。
「表現の自由」ということと、「美術・芸術の問題」と、「政治的アポリア(解決不可能な難題)」といった要素が、ぐちゃぐちゃになって現出している
私は「表現の不自由展・その後」の前提となった、2015年1月にギャラリー古藤(東京都練馬区)で開催された「表現の不自由展 消されたものたち」(主催:表現の不自由展実行委員会)を見た。
それなりに良い作品もあったが、表現と表出が弁別されていない、生硬な思想だけがむき出しで投げ出されている作品もあった。そのため、全体としての質は決して高くない展覧会だと評価せざるをえなかった。
美術・芸術作品としての質を度外視して、その「不自由」の構造を問いかけるためだったのだろうか。どのようにして。そして誰に向けて?
天皇を崇拝している人からすれば、作品のコンセプトに関わらず、御影が焼かれることは、コーランやキリスト像を焼かれるようなことなのでは。わざわざ昭和天皇と判別できる部分を焼いているところを映像にした意図は感じざるを得ない。作品破壊や展示を中止させるの脅迫はダメだけど、抗議されるのは仕方がないかな。
映画なら、靖国の鳥居を爆破することもできる。そこに信念と覚悟さえあれば、表現の中でこそテロをするべきなんです。
キワモノと呼ばれた大浦信行の、タブーを恐れない芸術家の極意 - インタビュー : CINRA.NET
展示拒否ではないが一部加工をしなければならなかった吉開菜央氏の作品は「表現の不自由展・その後」にないんだなと思っていた。「表現の不自由展・その後」ではなく個別に出展されていた。
立体音響や触覚デバイスを組み合わせてこその作品で、内容や思想はブレブレで中身スカスカの作品なのに、映像だけ流すの?表現規制を受けた作品だから選ばれたんじゃないかと疑ってしまう。
津田大介氏は芸術、現代アートをどのように解釈されているんだろう。2015年開催の「表現の不自由展」を鑑賞してこれだと思い、いわば今回芸術祭の目玉としてゴリ押しした。コンセプトを読むと、政治的主張のあるものこそがアートだと思っておられるように感じる。アートや表現の自由をご自分の政治主張を盾にされているような印象を受けた。ジェンダーバランスの均衡がとれるよう尽力されたが、宗教や政治思想にも多様性はあって、自分とは異なる考えの人もまたその人にとっては正義。監督としての裁量の自由と、政治思想の偏りは別では。公費であっても表現の自由は守られるべきだが、単純に例えばバンクシーが公費もらってあの表現をやってたらダサいなと思った。津田大介氏と東浩紀氏の動画を見る限り、炎上を狙ってたと受け取れる。ネットで議論を燃やして来場者が増えたとしても、表現規制や個々の作品の芸術性への理解が進むとは思わない。言葉でいくら説明されても腑に落ちなかったことがすっと理解できたり、いつまでも記憶に残り思い出す度に考えるような、そういうのが芸術の力なのかなと私は思っている。