ONUKA - Vidlik チェルノブイリ原発事故から30年

ウクライナ語と生音トロンボーンが載ったかっこいいテクノ、ポリゴンやデジタルネットワークを実像化したような芸術的な衣装。舞台衣装やハイブランドのファッションデザイン誌を見る楽しさ。モチーフはデジタルなのに、超アナログで実体化しているところが本当に面白い。CGやロボットっぽい動きを生身の人間がやったり、極端に長くてCG上でグイっと引き延ばしたような管楽器も実物、4つ打ちのビートも人が叩いてる。ポツポツと発せられるウクライナ語は、無機質でクール。
ONUKA - Vidlik


ONUKAは海外でも知名度のあるウクライナの人気バンド。テクノっぽいのはこの1曲だけ。ONUKAのボーカルで主要メンバーのNatalia Zhizchenkoの祖父はウクライナ伝統音楽の継承者で、彼女に音楽や祖国という概念を教えてくれた人。その祖父に敬意を表し、バンドの名前を「ONUKAは(孫娘)」とした。

知識ゼロで気に入ったこの曲だったが、チェルノブイリ原発事故から30年を記念して作られたアルバムの中の1曲だった。アルバムに「19 86」という曲があるが、1986年は原発事故が起きた年。Natalia Zhizchenkoは当時1歳。彼女の父は原発事故対応にあたっており、長く家を空けなければならず、ようやく帰宅した際にNataliaは父親だと認識できなかった。

当時、ほとんどの人はまったく何も知りませんでした!ラジオにより最低限やるべきこと(窓を閉め、1日に数回床を洗い、毎日ヨウ素を垂らしたコップ一杯の水を飲む。)を知っていれば、彼らの多くは安全だったでしょう!キエフから人々を避難させることの実現性について検討されたことを私は知っています。
5月には生き生きとしていた自然、我々が常に愛おしいものであった、その同じ自然が、突然おかしな/汚染された/危険なものになってしまったことを理解できませんでした。
"放射線は陰湿です。無味無臭で無色です…"
インタビュアー:あなたは修士論文で、チェルノブイリ原子力発電事故災害の結果を調査しています。文化的および人類学的な側面に、焦点が当たることは少ないです。災害はこの地域や隣接する地域に住んでいた人々の生活・文化・考え方にどのような影響を与えたとあなたは考えますか?
悲劇だと思います。一人一人と人類全体の悲劇。意識が無くなる。民族学的に、ポリシア地域はウクライナで最も歴史的に古い民族誌的慣習を残していて、最も美しい自然が残る地域の1つです。200年、300年、500年の間、ここで人間が生活できなくなることはとても理解できません。「samosely(自己開拓者)」ゾーンに留まるという意識的な選択をした人々、という社会現象が現れました。彼らは自分の小宇宙-世界のどこにも存在しないオリジナルの小宇宙-に住んでいます。

話を戻して、私が気に入ったテクノのような曲「Vidlik」について。この曲はGoogle翻訳の音声と、ウクライナの伝統的な楽器の音を組み合わせた曲。15歳までウクライナの伝統楽器に、以降は電子楽器にのめり込んだNataliaが実現したかった音楽。特に魅力的なベースのような低い音はБугай (Buhay)というウクライナの伝統楽器。樽に張った皮に馬の毛が通してあり、濡れた手で馬の毛をしごくことで皮が振動し、音が出る。MVの中でも黒尽くめの人が、黒いБугай を持って演奏している。この楽器を作っている動画を見つけた。Бугайの音で、水鳥か何かの動物と会話できるらしい。Бугайリスペクトなのか超個性的な髪型だが、楽器愛が溢れるめっちゃいい人の話だった。
Бугай – птах і музичний інструмент · Ukraїner


ライブではБугайに加え、трембиту (Trembita)、сопилку (Sopilka)といったウクライナの伝統楽器も演奏されている。


ウクライナでもONUKAがこうして現代音楽と組み合わせて紹介するまでは、ほとんどのウクライナ人が伝統楽器の演奏の仕方もわからない状況まで陥っていたそう。日本の箏や三味線はそこまでではないが、各流派で囲い込みし、お免状(資格)制度という家元への上納金システムを作り、敷居を高くして金持ちだけのお稽古事にしてしまった結果、楽器の良さや楽しさを理解する人が激減し、廃れてきている。和楽器の音はゲームでもよく使われているからか、海外の人の方が和楽器の音の魅力を理解してくれて、打ち込みの音やサンプリングで音楽を作ってくれていたりする。他国にはない、強みであり宝なのにね。侵略されて自国の文化や言語が失われるという経験がないから危機感なく、既得権益になってしまった。

日本で福島原発事故をテーマに、若者が純粋に熱狂できる音楽を作れるだろうか。どうしてもプロパガンダになってしまい、できない気がする。ここ最近ブログでもツイッターでも、イデオロギーを内包する作品や政治的なメッセージを表現をしているアーティストを紹介している。アーティストとして、どう扱い、どう表現するか、様々なパターンを学んだ。改めて「表現の不自由展」を振り返ってみても、芸術表現だったのか私にはわからないまま。一般の人も現代アートに関心を高めている中、政治的なことばかりに議論が集中し、現代アートによる政治的イデオロギーの表現方法について、多角的視点で活発に議論されなかったのは残念。

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