成功は最大の復讐 ウクライナのスーパーマルチタレント MONATIK

好きな音楽を追っていたら、どうもウクライナのアーティストを掘り進んでいたようで、国を調べてみたらウクライナだらけ。セルビア語の響きも好きだったし、スラヴ語っていいよね。ウクライナのアーティストであるMONATIKのことを調べてみると、2014年のクリミア危機の際、ロシアに戦争をやめるよう呼びかける歌を作ったとあった。ウクライナの人にとって、ロシアと一緒にされるのは辛いかもしれない。気を付けようと思った。そのMONATIKの経歴を調べてみたら面白い経歴で、モダンバレエを思わせる振り付け、スーパーモデルのような美女が出てくる理由も見えてきた。

経歴

Dmytro Monatyk 普通のダンサーからスーパーマルチアーティストになるまで 
参照元:Дмитро Монатік: докладна біографія, особисте життя, рідкісні фото, відео

アーティスト名MONATIK、Dmytro Monatyk (Дмитро "Діма" Монатик) は、1986年ウクライナ生まれの33歳。作詞作曲と振り付けをし、自身で踊り歌い、MVまで制作するスーパーマルチアーティスト。ウクライナで大成功し、海外でも公演している。
MONATIKは、ウクライナの西の小さな町Lutskで生まれ育った。父親は飛行機工場で働き、母親は重役の秘書をしていた、最低賃金だったが。MONATIKが10代の頃、両親は自分たちで始めた小さなビジネスを大きく始め、結果とても成功させた。彼の祖父は先天性難聴だったがアスリートとダンサーとして成功し、別の祖父はアコーディオン奏者で歌も歌った。
彼は13歳のときにストリートブレイクダンスをのショーを見て、ダンスを学ぶことを強く決意した。しかしコンプレックスと経済的な理由からダンスを趣味にしなかった。それでも、彼の才能・専門的技術・能力・望む声がそれらを上回り、DBS Crewとして振付を始め、すぐにグループでトップダンサーの一人になった。DBS Crewは人気で、地元Lutskだけでなく全国ツアーも果たした。MONATIKは歌も上手に歌った。
両親は"真面目な"専門教育を選ぶべきと主張し、MONATIKは2003年に人事と法律を専攻する大学生となったが、趣味としてダンスと音楽をする余地を残した。(大学の勉強は)とても難しく興味もなく、ただ夕方になるのを待っていた。なぜなら夕方から、娯楽やデートではなく、音楽をするからだ。
恋に落ちたが初恋は悲惨だった。MONATIKの強い感情は、情熱の対象に与えられるのではなく、創造性に昇華された。MONATIKは歌詞を書いて曲を作り、アマチュアのミュージックビデオを撮影し、作品を生み出した。最愛の人は他の人を好きになった。だから、最高の人になるために努力し、彼女が間違っていたことを証明する必要がある。善かれ悪かれ、恋愛の不運に誘発され、自己啓発し懸命に働いた。実際、MONATIKのキャリアはそこから始まる。
在学中の2008年、Star Factory 2というオーディション番組に出演、ファイナリストに選ばれるがプロジェクトの対象にはならなかった。Natalia Mohylevska(ウクライナの国民的アーティスト、SSW・女優・テレビ司会者・プロデューサーと多才)がMONATIKの才能を見極め、彼女のバレエに招き入れる。MONATIKは迷うことなく大学と片思いをやめ、首都キエフに移住する。
仕事は不安定だったので、MONATIKはダンス講師とキエフダンススタジオの管理者になった。ちょうどその時、ウクライナでトップ振付師がこのスタジオで働いていた。MONATIKは(この振付師の)上級者クラスを受ける機会がなかったが、違う方法を考えた。"床の下から"上級者クラスの様子を伺い、夜自宅で繰り返し練習した。
ダンスを習得する間も、MONATIKは自分の楽的才能を伸ばすことを忘れなかった。音楽に携わっていただけでなく、チームも結成した。彼の最初の音楽プロジェクトはMonatiqueという名前で、一生懸命練習し、リハーサルを行い、故郷Lutskで何回かコンサートを行った。しかし、それ以上のことは起こらなかった。
2010年、MONATIKは運命の転換点を迎える。バレエ団「D'arts」に同行する。ウクライナ国内で最も人気のあるダンスチームの一つで、振付師兼ディレクターのМикола Бойченкоは、ウクライナでNo.1だと認められていた。またこの頃、MONATIKはロシアのテレビシリーズ「Повернення Мухтара」にエピソード的な役で出演する。
テレビのダンス番組「Танцюють всі-3 (Everyone dance)」では、何千人もの挑戦者の中トップ30まで勝ち抜いた。その後、「Х-Фактор (X-factor)」でファイナリストとなる。
2011年、バレエ団「D'Arts」によって制作された「ТайУлетаю」という最初のミュージックビデオをリリースした。携帯電話で撮影されたものの、すぐに人気を博した。MONATIKのキャリアがすぐに上り坂になったと言えないが、ウクライナのショービジネスに彼はしっかりと従事していた。
MONATIK - ТайУлетаю


その後は、有名歌手に提供する作詞作曲家としてキャリアを重ね、ヒット曲を世に送り出す。
2013年にアルバム「Саундтрек сегодняшнЕГО дня (С. С. Д.) (Soundtrack of Today)」をリリース、2015年にウクライナで評価の高いM1音楽賞のBreakthrough of the yearを受賞。
2014年、クリミア危機の際、ロシアに戦争をやめるよう呼びかける歌「Може, вже досить (Maybe that's enough)」をリリース。


2016年アルバム「Звучит (Sounds)」をリリース、M1音楽賞のBest singerを受賞。「Кружит (Spinning)」はウクライナだけでなくロシアでもプロモーションなしで大ヒット。田舎のティーンエイジャーから有名人までが歌っていた。ウクライナのトップスターとしての地位を確固たるものとし、ウクライナの音楽賞を総なめした。
MONATIK - Кружит (Spinning)


2016年以来、MONATIKはウクライナだけでなくロシアでも積極的にツアーを行っており、ロシアでも絶大な人気を博した。しかし、2017年2月両国の複雑な政治関係のために、彼はロシアのコンサートを全てキャンセルしなくてはならなかった。チケットがすでに売り切れていたにも関わらず。
2017年には、カナダとアメリカのツアーを成功させる。「Танці з зірками (Dancing With The Stars)」の審査員を2年連続して努め、実験的な試みを奨励し、間違いに厳しい審査委員という評価を得ている。

まとめ

以上が経歴の抜粋。参照した記事の中では「そのかなり低い(身長の)高さ、164センチメートル、は印象的」とか「太ってお腹が出がちだけど、今は75kgを維持している。」とか書かれていてひどいのだが、MVの中ではアクションや複雑な振り付けも完璧にこなしていて、身体能力の高さが伺える。両祖父から受け継いだ才能と不屈の精神なのだろう。自分を振った相手を後悔させたかったのが始まりというのが面白くて、ミュージックビデオに極端に容姿の優れたスーパーモデルが必ず出てくるのも納得した。(現在は二児の父親で、奥さんにベタ惚れ。)
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モダンバレエのような芸術的な振り付けも、バレエ団でキャリアを積んだからだとわかった。ウクライナ国内では十分に成功した。言語や文化的共通点があるロシアで自由に活動できていれば、ロシアは巨大市場なのでもっと早く世界的に成功できただろう。後から見つけたラップの曲も良いし、アメリカとカナダをツアー中のようだし、来年あたりCoachella出てくれたらうれしいですね。

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