顔会議 東京都文化事業 目 [mé]「まさゆめ」

企画を知った時から、随分と気持ちの悪いことするもんだと思っていた。先祖や亡くなってしまった親しい人を空に思い浮かべることはあるけれど、存命する知らない人の巨大な顔が空に浮かぶなんて。 目 [mé]の作品は、資生堂ギャラリーやさいたまトリエンナーレでの展示の評判を耳にしていたので、もしかして納得できる深い意味があるかもしれないと期待していた。

『まさゆめ』は荒神明香が中学生の時に見たという「街の上空にまるで月のように人間の顔が『ぽっ』と浮かんでいる夢」から着想を得たもので、世界中から様々な「顔」を募集し、選ばれた「実在する1人の顔」を2020年夏に東京の空に浮上させる企画。

Tokyo Tokyo FESTIVAL|東京都生活文化局
オリンピックに合わせて実施する東京都の税金を投じた文化事業の1つ。

顔会議
「2020年 東京の空に浮かぶべき顔」を議論する顔会議、オンラインからも参加できるということで視聴した。有識者が「2020年 東京の空に浮かぶべき顔」を提案し議論した後、参加者が議論する流れの予定だった。

チーム 目 [mé]による作品の説明は、荒神さんの中学生の時に見た夢から着想を得たことと、過去に宇都宮で行った同様の企画とその反応について。宇都宮では、ゲリラ的に行ったので町が騒ぎになったり、お年寄りが家から埃をかぶったカメラを持って外に出ていらしたりしたそうだ。現時点900人程度の顔写真が集まっている。誰の顔が浮かぶか事前に公表されないので、2020年の当日まで自分や知り合いの顔が浮かぶかもしれないとワクワクして待つ。実在する人の顔にした理由は、ストーリーが生まれるから。当日に亡くなっている可能性についても想定されている。公共である景色に対し、個の象徴である顔を浮かべる。有識者原島教授は一般の人に話すことにとても慣れておられて、面白おかしく自分の研究のお話をされた。結局、有識者による「2020年 東京の空に浮かぶべき顔」の提案や議論はほぼないまま、参加者の議論に。

壁には応募者の顔写真、顔会議参加者の手元にも印刷された顔写真の冊子、いくつかのグループに分かれ「2020年 東京の空に浮かぶべき顔」を議論。途中、参加者が選んだ中から荒神氏が選ぶのではないこと、顔とメールアドレス以外の情報は取得していないので顔だけで選ぶことが説明された。参加者からは、後ろから見たときのことを考えて髪の毛のない頭の形のきれいな人がいいのではという意見や、原島教授の意見に影響されて、意外性のある例えば強面の顔、上から見下ろすのだから銅像になるような偉い人は避けた方がよい、人は顔を直視できないことから仏様のような顔という意見も出た。

顔会議の感想
YouTube/Facebook/Instagramでも生配信されており、オープンに議論されたことは評価できる。空に顔を浮かべる企画の意味や本質が共有される場と説明にあったので期待していたが、結局は「でかい顔が空に浮かんだら楽しくない?みんなびっくりするよね。」「自分や友達の顔が浮かぶかもしれないと思うとワクワクするでしょ?」みたいな文化祭ノリで心底がっかりした。個の象徴である顔と言いながら、個人の属性情報は取得されておらず、顔面の写真だけで選ぶ。壁一面に張り出された何百もの顔写真を指さしてこの顔あの顔がどうだ話す、手元の顔写真の冊子に付箋や丸を付ける様子は見ていて気分が悪かった。広告代理店の人は慣れているのかもしれないけれど、人の顔はオリンピックのエンブレムやマスコットではない。人の顔写真が並ぶのは、卒業アルバムや戦没者くらいだと思う。何百人と並んだ顔写真を、その人がどういう人生を背負って今生きているのか知らずに、顔面と勝手な印象で選ぶ。東京の空という背景にあうパーツとして顔のお面を選んでいる。人の顔写真を平気で指さしたり付箋を貼ることができる人が多いことにとても驚いた。人は生まれるときに顔を選ぶことはできない。その顔で選ぶことについて質問があったが、それに対し 目 [mé]が回答することはなく、原島博教授が持論を展開された。銀行員の顔データから平均顔を作ってみたらいかにも銀行員らしい顔になったというご自分の研究から、顔というのは変えられるものだと主張されていた。研究当時の銀行は、今以上に見た目で採用していた可能性もある。格闘家は強面が有利で、客室乗務員とアナウンサーは顔で採用されてきた職業。服装や言葉遣いは銀行員らしくなるかもしれないが、顔がそれらしくなるというのは不確かで偏見にも繋がると思う。f:id:senotic:20190625163548j:plain
原島博教授は政治家の顔はが浮かぶのはよくないとおっしゃっていて、参加者も同意していた。例えばアドルフ・ヒトラーのそっくりさんは顔が似ているという理由で外されてしまうことになる。それは生まれ持った顔を差別していることになるのでは。これが例えば顔でなくお尻だったら?たくましいからスポーツしている人とか、曲線が美しいとか、たれ具合がどうだとか。私はそんな風に、実存する人のパーツを選べない。美人コンテストも出たい人が出て民間がやるのは勝手だけど、公共のオリンピック、パラリンピックにあわせた公共の文化事業として、人のパーツを並べ「浮かぶべき」「浮かぶべきでない」を議論することが全く理解できなかった。

企画に対して
なぜ抽選ではなく「2020年 東京の空に浮かぶべき顔」をわざわざ人が集まって議論し選ぶことにしたのだろう。
「まさゆめ」のウェブサイトのトップには、日本人(と思われる)女児、年配女性、白人、アジア人(と思われる)人の顔が順に表示される。年齢国籍性別を問わず、誰でも応募できるとある。空に浮かべる顔はカラーではなく白黒で、確か中からだったか光で照らすという説明だった。黒人の方ならどうなるのか。誰でもと言いながら、性的マイノリティや顔が変形していたりシミや傷がある人も応募し易いように配慮されていただろうか。900人の写真の中に、男性の顔で女性らしいメイクや髪型をしている人、病気で大きく変形した人の顔が含まれている状態で、「2020年 東京の空に浮かぶべき顔」「浮かぶべきでない顔」の議論ができただろうか。ありのままの顔で外を歩くことを躊躇う世の中で、自分の顔を受け入れられず苦しんでいる人は本当に多い。本当はどんな人だって自分の顔を好きになって、浮かべてみたいと思っていいはず。
今回のアート作品はゾーニングされていない。日常の景色に割り込んでくる。自分をいじめている同級生の巨大な顔が、突然自宅の前に出現する可能性もある。窓の外を見るたび巨大な友達の顔を思い出すことになるかもしれない。通勤路に前の会社のパワハラ上司の巨大な顔が浮かんだら、地獄。応募してくる人が善人とは限らないし、生きている限り誰かしらの妬みや恨みは買ってしまう。万人に愛されて生きるのは難しい。そういう苦痛も含めたアートなの?アートだから許されるんだろうか。アートには配慮を求めてはいけないのだろうか。目 [mé]の人たちはそんなこと話していなかったから、想定しているとはとても思えなかったけど。

かつてないほど多様な人々が東京に集うオリンピック・パラリンピックに合わせ実施する企画に、顔面の見た目だけでたった一人を選択するアートの意味が全くわからない。誰かを選ぶことは他を排除することだから。

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