構造的格差とルサンチマン

読み手次第

自分のブログで、読み手の考えや行動に影響を与えたいとは思わなくて、何かしら考えるきっかけになるというのが理想。「わきまえる」人たちで構成されたホモソーシャルに慣れ親しんだ人からすると、私はエッジ―に映るようだが、単に生まれながらの「わきまえない女」なだけで、自分が正しいと思うことを、勝手な正義感から発信しているだけ。言うまでもなく、皆が思っていることを代弁して、憂さ晴らしをしてあげようなどと思っていない。むしろ、スカッとして終わってほしくはない。でも、読み手がどう読むかは自由。1,000人に1人くらい、読んだ後の一瞬でも何かしら考えてもらえたら、それで十分。

自分で考える

ブログを不満の代弁に使われてしまうのは不本意なので、「実家が太い」シリーズは、英語でのディスカッションを和訳して引用している。私自身、プロの完成された記事ではなく、多様な視点からのディスカッションを読むことで、自分で考えることが促されるから。だから、それを共有したいと思った。知識や語学力に関係なく、誰もが議論に参加できるべきだと考えているので、日本語に訳し、できるだけ平易な言葉を使うよう心がけている。
実家が太いアーティスト 特権を認めること MitskiとArca論争
実家が太いアーティスト 特権を認めること Arcaは裕福な家の子だったか
実家が太いアーティスト 生まれ持った格差

私のブログに対するリアクションや、良く思わない方の話を聞いてみると、ブログの内容が正解で、その考えに従わないといけないと思ってしまっているらしい。(正解は1つだから)異なる意見は、別の意見を否定することと解釈されるらしい。正解は一つで、間違うことが恥ずかしいことという刷り込みがあるように感じる。不平不満を述べず、現状に満足し、自分の身分や階層をわきまえる。日本の学校教育は、そういう風潮と自分の意見を持たない飼いならされた人を多く作り出す「よくできた」システムだと思う。総理家系に生まれた人が代々世襲し、紙に書かれたことすら、内容を理解し正しく読めない人が大臣を務めていられる。

弱者の強者批判

日本では、どうも弱者が強者を批判することが、恥ずかしいことや卑しいことだという空気があるように感じる。これは強者側がその特権を維持するのに、好都合である。強者が自分たちが有利で循環させる仕組みを作り、弱者が這い上がれないようにしながら、弱者の不満を敗者の負け惜しみだと一蹴する。

朝ドラのヒロインのモデル、広岡浅子や坂野惇子も、実家が超太いお嬢さんなのよね。「おしん」との社会的経済的格差よ。実家が太いと口にすると、金持ちへの嫉みやひがみ、お金持ちで成功した人の名誉を傷つけていると非難されてしまう。「金持ちだから成功しただけでしょ。」とか「貧乏人は努力しても報われない。」とは、決して言っていないのに。お金持ちで恵まれているという事実を気にしないのが上品な大人とされているようだ。口にしてはいけない、卑しいこととされる風潮。タブーである。
構造的格差の存在を認めなければ、格差解消のための施策が取られることはなく、貧困のスパイラル(Cycle of poverty)により、貧富の格差は開いていく。

ルサンチマン

多様な意見や多角的な視点は大事で、ブログの内容に対する意見は「どうぞご自由に」なのだが、「実家が太い」シリーズは、構造的格差(Culture of poverty 貧困の文化や、Cycle of poverty 貧困の悪循環)の問題提起だったので、強者側の人が弱者の話であるこの件にルサンチマンという言葉を当てはめることには反発したい。
欧米で、ルサンチマンという言葉がどう使われているか、試しにressentimentでニュースを検索してみると、トランプ元大統領に関するニュースが多く並ぶ。つまり、お金も地位もあるが、負けたことを環境のせいにして不満を抱いていることとして使われているようだ。例えば、黒人が格差に不満を抱いていることを、白人がルサンチマンだと言えば、問題になるのでは。
ルサンチマンとは、ニーチェの奴隷道徳においては、弱者が逃れることのできない抑圧に対する反発、強者への憤りや憎悪などとされている。解釈の幅があり、知識や理解によって言葉の印象も異なる。日本では、敗者の負け惜しみのような意味で使っている人も見受けられる。構造的格差は、社会の仕組みの問題であり、個人の努力で解決できるものでない。奴隷のように従属的に不当に扱われているという意味で使ったとしても、状況が変えられないものという印象を与えてしまう懸念もある。悪い意味で使っていなかったとしても、この言葉を使うのは避けるべきだと思う。

格差の存在を認める

恵まれない環境を嘆き、お金持ちを羨ましく思う感情は、人間として自然なことで、他人からは否定されたとしても、自分自身はしっかりと受け止めて、ドロドロとした感情も抱きしめてあげるべき。厳しい境遇にあって嘆き悲しむ自分を卑下し、更に貶めないでほしい。あなたのせいではないのだから。逆境を乗り越えることは、美しいことではない。努力や実力次第のフェアな世界という幻想を押し付けて、現実問題から目を背けさせたり、逆に、裕福に生まれたことが有利な現実を受け入れ、格差の問題を放置すべきでもない。構造的格差の問題は、個人の自助努力で解決できるものではないから、個人に責任を負わせるものではない。完全に解消できないとしても、社会として格差を解消するための努力を怠るべきではない。海外では、貧困層が受けられる音楽教育があったり、そもそも人種やジェンダーの割合が決められていたり、格差の存在を認め、是正する施策がある(アファーマティブ アクション、積極的格差是正措置)。才能あるアーティストをフックアップする方法もあるし、私は大手が取り上げてくれないインディーズやクィアアーティスト、サラリーマンのような普通の家に生まれたアーティストをあえて積極的に紹介してきた。

ガラスの天井

女性差別や格差の話をするときに、「そういうことは、出世して偉くなってから言え。」とよく言われた。若い人が多い会社や外資を選んで働いてきたが、それでも、男性社会ホモソーシャルだった。タバコ部屋、飲み会、ゴルフに付き合える人が有利だった。親切な男性は、そういう場所にももっと参加すべきだと助言してくれた。政治が国会で議論されるのではなく、会食で行われるのと同じ。男性社会は、マウンティング社会。論語、哲学や思想、三国志のような歴史の引用、イギリス訛りの英語といった知識教養をチラつかせなければいけない。(デスクの上に本を並べている人で、その知識を理解し使いこなせている人に会ったことがない。)経験上、家柄や育ちの良さをアピールすることでコロっと態度を変えるのも男性に多かった。そういえば、時計や身に着けるものに金をかけろとアドバイスされたことも思い出した。男性の間に私のブログが拡散されると、分かり易くプロフィールへのアクセス数が上がる。つまり、誰が言っているかが重要であり、それによって受け取り方が違うということ。営業のように成果が数字で出る仕事というのは少なく、定性的な評価は、どうしても好き嫌いに影響される。一緒にキャバクラに付き合ってくれて、セクハラ発言に真顔で怒ってこない部下と働きたいよね。気持ちはわからなくもない。
社会の仕組みは男性が作ってきたから、男性に都合のよいように、有利なようにできている。評価者は男性がまだまだ多く、評価基準は男性の価値観でできている。自分が実際働いてみて、(自分とは違う)男性の価値観を理解し、男性が評価してくれるような振る舞いをした。例えていうなら、サイズや体の形に合わない、男性のスーツを着て、同じように歩けと言われるようなもの。嫌なら他へ行けば、自分で会社を作るしかないとも、よく言われたなぁ。
女性ラッパーのAwichさんは、自分が好きでそうしているとして、「~っす」と男性言葉を使い、エロいと言われれば誉め言葉と受け取り喜んでいる。そうしなければ国内では認められることはなかっただろうなと思いつつ、違うやり方で成功した国内外の女性ラッパーはいたりするのだろうかと最近調べたりしている。

f:id:senotic:20210217165107j:plain

f:id:senotic:20210217165125j:plain
f:id:senotic:20210217165141j:plain

女性が生き易いように組織や社会を変えるには、男性社会で出世し発言権を得なくてはならず、そこへ至るには多くを占める男性にも認めてもらう必要がある。発言権を得られるまでのつもりで、男性社会に溶け込んだ結果、ミイラ取りがミイラになり、すっかり名誉男性かしてしまう。苦労の末得た地位を離したくないから。実際、そういう事例を目にしてきた。
「不満があるなら、勝ち上がってから言えよ。」という人は、その人が勝ち上がれないことがわかっているし、上がってこれないように阻止する。

見切りをつける

先日、この人たちは大丈夫だろうと油断して聴いていたら、リリックに差別用語が2つも出てきた。フォローやら登録を解除した。2016年当時、自分とは異なる価値観を理解し受け入れようとして、そういうカルチャーだからと、差別らしきものを見て見ぬふりをしたことに後悔している。差別も含めてその人を受け入れても、その人たちの差別意識が更新される訳ではない。30歳を過ぎて、差別発言をしてしまう人を変えるのは難しい。業界として、音楽の才能や人気があるからと、差別している側を擁護し今も続けている。Z世代の音楽は、差別的なものが少ないし、間違ったことを言ったとしても、理解し変わることができる可能性がある。もう変わりそうにない古い人たちは放っておいて、Z世代を応援する方が手っ取り早い気がしている。

セーフスペース

去年は、De Schoolの閉鎖、Erick MorilloやDerrick Mayの件、Daniel Wangの告発など、様々な物事を考える機会があった。それらは、ハラスメントや虐待だけではなく、格差の問題を含んでいる。
明らかな差別発言をしている人が、番組に出演し、学校で教えていることに驚く(De Schoolは謝罪したが、結局クローズした。)。プログラミングならまだ分けられる気はするが、音楽以外は民族や歴史と結びついている。科学の研究はもちろん、人種や女性差別をするバイアスの強い人が、良い音楽の評価やレビューをできる訳がない。公立でなく民間の学校であったとしても、様々な人種性別の人が学ぶ場では、生徒が安心して学ぶことができるようにしておく責任があると思う。特に子どもや若い人が学びに来る場所は。自己防衛させるたぐいのものではない。差別発言をすることで一般社会にいられなくなった人を擁護する場所は、差別される側にとってはセーフスペースではない。差別主義者を擁護し、弱者を排除してきた場所を「文化施設」と認めたくない。

1年前に音楽ライター・批評家のジェンダーバランスのことをブログに書いた。誹謗中傷も受けたが、森発言の後だったらどうだったかな。ふと考えたりする。

Copyright © 電子計算機舞踏音楽 All Rights Reserved.