感動ビジネス アーティストの人生物語を消費する

人生経験を売る

アーティストの人生の物語込みで作品を消費することの是非については、時々考えていた。このブログを読んだ。

NiziUのメンバーのミイヒは体調不良で休養していたが、『Step and a step』のMVの中にミイヒが部屋でうずくまっているシーンがあり、プライベートな健康のことまで作品にし、ビジネスにしているのではないかという批判。

体調不良によって活動の中断を余儀なくされたミイヒは、「うずくまり、誰かが扉を開けてくれるのを待つ」姿と不用意にリンクしてしまう。このシークエンスは彼女が体調を崩す前、あるいは活動休止を決定する前に作られた可能性は高い。だが少なくとも活動休止が決定した時点で、この演出とミイヒ不在の現実をリンクさせて鑑賞する人がいるであろうことは想像には難くなかったはずだ。

なぜNiziUデビュー曲は批判された? アイドルの「物語化」が引き起こす感動搾取 - Sisterlee(シスターリー) - Medium 

海外の音楽情報を拾っていても、最早ストーリーで作品がプロモーションするのは当たり前で、むしろ作品だけが語られることが少ない。だって「技術的に素晴らしいから、この音楽を聴いてみて。」と言われて聴きますか?っていう話。クラシックやジャズならともかく、娯楽音楽で。私も、自分が素晴らしいと思う音楽を、どうやって人に聴いてもらうか、日々考えている。膨大な音楽に埋もれてしまわないように差別化は必要で、共感を得られるストーリーや意外性のあるアーティストの人生経験を、アピールに使いたくなる。苦労して逆境を乗り越えたアーティストは、応援したくなるものだ。ただ、それは作品ではなく、アーティストの人生も消費していることになる。

人生の物語を消費する

リベンジポルノの被害で業界を干され、自らのプロジェクトで復活を遂げたHoàng Thuỳ Linh。彼女の過去を知ると、作品が意味を持つ。彼女の過去を知ってから、この作品を鑑賞し、涙した。

未来を奪われた少女の復活 Hoàng Thuỳ Linh - Để Mị Nói Cho Mà Nghe - 電子計算機舞踏音楽

Billie Eilish 『xanny』

ドラッグや煙草は、あなたを自身を殺している。ゆっくりとあなた自身を殺している。ミスで死ぬ誰かを愛するわけにはいかない。失いつつある誰かを愛したくない。なぜなら彼らは自分で死のうとしているから。2日前に友達が亡くなったので、レコーディングをするのはとても大変だった。

Billie Eilish 『xanny』 失いつつある誰かを愛したくない - 電子計算機舞踏音楽  

土岐麻子 『美しい顔』

私はあの女性の泣き顔から、脅迫された人のパニックを連想した。世間の美の価値観とは、そう、ときに脅迫的で暴力的である。「あんたつまらない顔ね」「若いのにさー。メイクさん、この人のほうれい線なんとかしてあげてよ」「なんでこんな顔で写ったんだよ? 俺がどれだけがんばってこの雑誌の仕事取ってきたかわかるか!」全部私が20代前半、仕事関係の人たちから言われた言葉だ。

土岐麻子 『美しい顔』あらゆる猫の毛の模様を美しいと思うように - 電子計算機舞踏音楽 

当事者が実体験を語る重み

レズビアンであるL Devineは、相手の母親から交際を認めてもらえなかった経験を歌にしている。

『Daughter』では、彼女のクィアネスと(元カノと彼女の)関係を拒絶した元カノの母親を激しく非難します。彼女は歌います。「私を信じて。あなたの無知で私を困惑させないで下さい。彼女は私のベイビィ、ガール。あなたが彼女に教えた全てに反しますが、すみませんミセス、私はあなたのお嬢さんに恋をしています。」彼女の心からストレートに出てくる、彼女独自の信頼できる物語は本物で、リスナーに対して明らかに影響を与えました。

最近、トランス(ジェンダー)役者がトランス(ジェンダーの)役を演じるかどうか、クィアの歌手がクィアの歌を書くかどうか、本物がこれほど流行語になっているのは、理由があります。生きた経験により、物語を遥かにきちんと説明できます。

「40歳の男性によってどれだけ多くの若い女の子の多くの歌が書かれているかに気が付いたなら、それはあり得ないでしょう。女性が歌を書けないからだとは思いません。A&R(Artists and Repertoire、アーティストの発掘・契約・育成とそのアーティストに合った楽曲の発掘・契約・制作を担当)と人々が、会議を設定せず、彼女たち自身で歌を書く場を持つという機会を与えていないからです。若い女の子のための歌を書こうとしているなら、若い女の子が書くべきというのは当たり前にことです。

L Devine 分類を拒否するクィアなポッププリンセス - 電子計算機舞踏音楽

実際の経験から生まれた歌詞は重みがあるし、本物である分、共感を得ることができる。もちろん、小説も映画も音楽もフィクションなのだから、当事者が書く必要はない。名プロデューサーが作った歌詞を若いアーティストが歌っても、私には響かない。映画でも、クィアの役はクィアアーティストがやるべきではという議論があるが、本物かどうか、見抜かれるようになってきているのではないだろうか。SNSにより、日常的にリアリティーショーのようなコンテンツに触れているから。

本物を見抜く

クィアのアーティストは、今まであまり評価されず苦労してきた。最近は逆で、クィアであることがアピールになり、アドバンテージにもなってきている。南米出身のクィアとして差別を受け、仲間内のインディーズから始め、苦労してきたと勝手に思われていたアーティストが、実は恵まれた環境で育ったお金持ちだった。"ホンモノ"ではなかったことがバレたときの風当たりは厳しい。

アーティストがコネか何か持つ裕福な親がいるかどうかは気にしません。 アーティストが、自分で作った底辺から始めたサクセスストーリーで自身を売り込もうとしたら、悪いように私とむかつかせるだけです。

地下室で過激な音楽を作っているオハイオ州の黒人の女性が、ニューヨークに住むお金持ちの父親がいる誰かさんが掴むであろうチャンスを掴むことはないでしょう。

Arcaは近頃、我々みんな、勝手に使われた美学がArcaの生い立ちとは違うことを知っているのに、彼女はその美学を本当に投影したがっています。彼女の音楽は、裕福なアート仲間のサークルから始まり、同じくお金持ちのニューヨーク大学及びアートスクールの流行に敏感な仲間の間で人気が出ました。Arcaの旅路を愛していますが、彼女が自分の特権があった過去を上書きし、アーティスト(特に、黒人のトランスの女性)のものであったこの美学を勝手に使って、それに合わせるのは、本当に奇妙で、ある種無礼に見えます。

実家が太いアーティスト 特権を認めること Arcaは裕福な家の子だったか - 電子計算機舞踏音楽

音楽作品だけの評価

結局、シンプルに音楽だけ聴いてみてと言って、聴いてもらえるのかということに、戻ってくる。多くの人は、作品より、アーティストの名前や評価(受賞歴・世間での話題・チャート・音楽批評)で聴くでしょう。売りにできる人生経験があるなら、何だって使って、成功したらいいと思っている。それによって、自分が消耗したりしない程度に。
私は、あまりバイアスがない、というより世間での評価は疑ってかかるタイプだけれど、それでも、アーティストのインタビューを読むと、作品に愛着を感じてしまう。作品に対して、純粋ではないと思う。ドキュメンタリーとしてアーティストの人生の物語も消費することは、どうなんだろうな。アーティスト次第でもあり、消費が許される限度があるようには思う。じっくり考えたい。

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