Dorian Electra - Sorry Bro (I Love You) クィアの音楽が必要な理由

遊んだり喧嘩したりする男同士の仲間、ふと自分がその仲間の1人に恋をしていることに気が付くという歌。クラシカルなチェンバロに、ビリビリと響く電子音、乾いたハンドクラップとごちゃまぜ感のある音楽。映像監督には、100 gecsのMVも手掛けるWeston Allenも参加している。

Dorian Electraが、LGBTQ+の人のために音楽を作り、作品に起用する理由をインタビューで語っている。LGBTQ+の人にとって、シスジェンダーの人が作った音楽はいかに違和感があるか、自分たちのものと感じることができないことについて説明している。以下、American Songwriterのインタビュータビューの部分和訳。

ええ、私は間違いなく非常に強い特権があります。 私は、強く支えてくれる両親がいるとても協力的な家庭で育ちました。 性別による違いを重視しない学校に通いました。 私の母はクィアだと自認しています。 これら全ての私が育った状況は稀であり、多くの人には無いものです。私はそのことを認識しています。 多くの人にとって、クィアでいるのは難しいことです。基本的な医療を受けることは、簡単ではありません。有色人種のトランスジェンダーの女性は、まだ残忍に扱われ殺されています。とても多くのことが起きています。警察の暴力さえも。全てが本当に悲しく深刻です。ですから、アーティストとしての私の使命の一環として、これらの問題に光を当て、疎外されることの多いこれらのアーティストをフックアップしたいと思っています。

とは言え、自分と自分のの人生での実際の経験を共有したいと思います。 上手くいけば、誰かがその経験を自分のことのように感じ、何かを得たりそこから確認することができます。それについて、私の音楽がその問題にどう取り組んでいるかを時折簡単に忘れます。例えば、『Sorry Bro(I Love You)』で、自分自身を「bro guy」*と呼んでいますが、割り切りがあります。 現時点私はとてもその言葉に慣れているので、それによってコラボする人たちと私の心が乱させることは最早ありません。

*「Bro」という言葉は、お金持ちで白人のストレートの男性グループでまん延するある種の特権の無自覚でいることの略称となった。Bro culture - Wikipedia

しかし、多くの音楽、特に常に男性や男性ぽいものに恋するシス女性の音楽によって、疎外されたような気持になることをはっきりを覚えています。もちろん、これらの要素は多くの音楽に存在します。 セックスについての話し方、男性自認するアーティストの女性について語り方、あらゆることにおいて。私は常に、そういったものから疎外されているように感じていました。 疎外でなくとも、外れていて、退屈です。

最も自分たちに関係するコンテンツを作る必要があると感じていたので、皆がこういった言葉の表現でただ遊んでいたように思います。
『CareerBoy』をやったとき、誰かが自分のことのように感じるだろうかはわかりませんでしたが、私はただやらなければならなかったのです。「私の中にあって、本当にそこへ出す必要がある。」みたいな感じでした。

コンテンツに対する驚くべき圧倒的にポジティブな反応を目にしたことは、私自身にとって大きな肯定でした。私は正しかったと確認できました。「自分をぴったり重ね合わせました。」というような、AFAB(Assigned Female At Birth、生まれたときの性別が女性)の人々、男性的な人々、トランスのゲイの人たちが大勢いました。「これはすばらしい。私は9時5時で働くクィアな人ですが、この歌で前に進み続けます。」というようなことを言う、必ずしもノーマルなゲイストレートやジェンダースペクトルに適合しないその他のクィアな人々もいました。私はこれらのいずれの反応も全く予想していませんでした。私の音楽が他の人に認められる様子を見て、私がアーティストとして、そして人として、認められました。「よし、すごいぞ、私が単に衣装を着ておかしなちょっとしたジョークをやっているだけではないと理解されている。」という感じでした。人々は、言葉で表現するのが少し難しいアイデンティティや政治についてのことさえも、様々なレベルのことを誠実に理解しています。

また、自分の音楽をクィアに限定したものだと考えたくはありません。 クィアネスやそれに近いもの概念が主流の一部となるのが、私の目標です。性別の役割は、より柔軟になり続けるべきで、性別で物事に従うことへの不安やプレッシャーが軽減されると感じるはずです。こういった有害な抑制は、我々の文化やメディア、さらには私たち自身によっても、無意識に受け継がれます。 「全ての人のための音楽」を作りたいのですが、「全ての人のための音楽」がどんなものかにチャレンジしたいです。

Dorian Electra Proclaims Their Agenda « American Songwriter

和訳は以上。

男性のおじさんが書く女性アイドルの歌詞はもちろん、男性の批評家が評価する音楽、男性の編集者やライターが選ぶ音楽にずっと違和感があった。だから、クィアの人がシスジェンダーの人が作った音楽に違和感を感じるのは、なんとなく理解できる。男性はそれに気が付かないし、ポップスのように女性が評価する音楽を、自分たちの評価軸では測れないから、軽んじてきた。複雑なリズムだとかコード進行だとか、高い機材でないと区別できないような音の違いがどうだとかに偏って評価しがち。音楽ライターの人が書いたレビューなのに、歌詞の中身や歌の意味に一切ふれていないことも多々ある。Dorian Electraの音楽がまさにそう。音の話や誰が参加しているとかで、歌の中身やメッセージの話をしている人は、日本では誰もいなかった。海外のレビューは、Dorian Electraの考えや、歌の意味やメッセージについて多くの文字数が割かれていた。絵画だって、技法だけで評価することはありますか?その絵が何を表現しているか、どういう意味があるかも批評の対象でしょう。海外の音楽レビューをよく読み、自分でも幅広く音楽を探すようになって、日本の音楽批評やライターがどれだけ狭い範囲の音楽を、限られた評価指標でしか見ていないかよくわかった。DJだってそう、海外の人はどういうコンセプトのミックスか聞いてくるが、日本人DJは答えられない。
Dorian Electraの前アルバム『Flamboyant』は、女性ファンや女性批評家から高い評価を得た。今作『My Agenda』は、それを正反対に振り切ったインターネットのオタクや男性向け音楽。狙い通り、見事にその層に響いている。男性が好む音楽女性が好む音楽があることを、実証している。長谷川白紙の『肌色の川』や『横顔 S』から、『エアにに』への変化を勝手に思い出した。彼はお化粧もするし一人称は「わたし」だけれど、ライブなんか分かり易いが、男性的だしオタクなんだよね。Dorian Electraは女性的。LGBTQ+やトランスジェンダーの話も、Dorian Electraの説明で理解できるようになった。露出が多く目立つトランス女性がそうなのかもしれないが、共感できず理解しにくかった。トランス男性の話の方が共感できることが多い。
お金持ち・白人・男性など特権がある人が、それを自認するのは難しい。私は会社の名刺や住所でコロッと態度を変えられたことがあるのでわかるけれど、ずっとそれを当たり前に受けている人はその恩恵に気が付かない。

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